「風が吹いた日」

 風が吹いた日

 作:日向夢想(夢想人企画)


 いつもの様(さま)を装い洗面をするけど、それは気が気ではない。
 ゆうべは、嫁さんは夜半からずっと寝ていないそうで、それは、寝ぼけながらも気づいてはいた。
 夜中、何度か、そっと声をかけてやってはみたけど、大丈夫、と笑う嫁さんに、俺としては「大丈夫なんだ」と思うしかない、といった感じ。
 自分なりにいろいろ心配しているのだが、こんな時、本当にどうしようもなく、情けない。
「じゃ、行ってくるから。何かあったらすぐに電話しなさいね。昼で帰ってくるから」
 嫁さんの頭を、そっと撫でてやる。普段はこんな事しないくせに。何も出来ない自分へのごまかし。

 土曜日。風が強い日だった。

 職場について、すぐに作業着に着替えると担当工事現場へ向かう。内勤の日じゃなくてよかった。気が紛れるもんな。

「へぇ、それじゃ、事務所へ戻って電話待ちしてた方がいいですよ。そろそろ入院してるんじゃないですか?」
 雑談の中で現状を簡単に話すと、現場代理人(請負い建設業者の、いわゆる監督さん)のKさんが、ひやかし半分で言う。
「まぁ、仕事は仕事、ですからね。昨日休んでしまったし」
「いやぁ、仕事、手につかないでしょう」
 図星。実際、事務所にいたって、落ち着かないものだから、現場監理にでてきたというのが八割方事実。

 11時。事務所に戻る。
 同僚たちに、昨日のてんまつを披露してやる。
「……で、結局、病院から帰されたってわけだ」
「そうかぁ。休暇までとって、奥さんについててあげたのにねぇ、残念だったね」
「まぁ。昨日の朝は、まだ陣痛ではなかったんだろうけど。今晩か明日、入院だな、きっと」
 と、そんな話をしている時。俺宛の外線がかかってきた。
「はい。どうも」
 先輩が、にたにたしながら電話を渡してくれる。
(あぁ、入院したな)
 そう思いながら、受話器を取った。
「もしもーし」
 嫁さんの声。
「どうした? 病院?」
「うん。仕事中ごめんね。産まれたよぉ」
 あ。早い! とまず思った。心の準備がまるでなかった(と言うより、俺の予測より一歩先の状況だ)。
「え? 産まれたぁ!? そう。……ありがとう」
 半ば呆然としながら、とりあえず、そう言っていた。
 室内の視線が、一斉に俺を射る。
「今、分娩室。おんなの子だよ」
「ん。早かったね」
「10時04分。9時にね、ひとりで、行ったの」
「うん。お疲れさま。昼で仕事終わるから、すぐ行く」
「待ってる。あなたの事務所しか連絡先わからなかったから、他にはかけてないよ」
「うん、うん。わかった。とにかく、ね」
「うん」
 電話を切り、真っ先に、おふくろと、義母のところへ連絡を入れた。
「……ふぅ」
「産まれたの?」
 同僚の誰かが言った。
「うん。女の子。嫁さん本人からかかってきまして(笑)」
「奥さんが? それはすごい」
「だから、疲れてるだろうし、まだ詳しく聞いてないっすけど」
「そう。早く帰ってあげなくちゃ」
「そうですね(笑)」
 終業のチャイムが鳴ると、昼食もとらず、事務所を飛び出した。

 風が、堤防の木立ちの枝葉を揺らしていた。
 自転車を漕ぐ。風が強い。あおられそうだ。負けるか!
 橋の欄干に止まっていた数羽の鳥が、風に乗って舞い上がっていった。

(武田鉄矢さんは、菜の花を見ている時に生まれた子供に、菜見子さんと名付けたんだっけ。俺は、葉っぱを見てる、か。……鳥か?)
 しかし、葉っぱや鳥じゃ連想が名前に発展しない。

 おふくろと待ち合わせをして、病院に着いたのは、14時頃。
 病室に入ると、嫁さんはベッドに横になって、安堵の表情を浮かべていた。
「お疲れさま。君から電話があったから、てっきり『これから入院』って事だと思ったけど」
「朝、ひとりで、歩いてきたんだよ」
「大丈夫だった?」
「うん。でもね、病院まで来た途端に、倒れ込んじゃって(笑)3人の看護婦さんにかつぎ込まれたの」
「そうかい。でも、割と元気そうだね。安産だったみたいだし」
「でしょ。お昼も食べたよ。カレーだったから、半分しか食べられなかったけど」
 お産直後にカレー……。
「いや、よく半分も食えたな。カレー出すなんて、変な病院だ」
「出産は病気じゃないからね。一般と同じ給食だよ」
「ところで、赤ちゃんは、どこ?」
 おふくろは、早く初孫の顔をみたいらしい。そわそわしている。
「あ、新生児室だって。看護婦さんに聞いてくれる?」

 新生児室と言っても、普通の病室と同じようだった。
 廊下からのぞけるガラス窓があった。
 果たして、わが娘がいた。一番近くにいる二人の新生児のうちのひとりだ。
 3186グラム。49センチ。
 おどろいた事に、隣の子も、偶然うちと同じ姓の女の子。こちらは2日前に出生したそうだ。
 わが娘は、くりくりとよく動く。そして、ふと、窓から外を眺めるように首を巡らし、そのまましばらく動きが止まった。
「あ、なんか、外見てるよ」
「まだ目は利かないでしょう」
 おふくろは笑う。
 そんなことわかっている。でも。
「でも、見てるみたいだよ。何見てるんだろ。あの木かな。風が吹いてるからね」
(あ!)

「風を、見ているのかな……」

 平成四年如月の、風が吹く日のできごと。
 この日、家族が増えた。

 初出 「Y氏の日記 風が吹いた日」1992.02 びといんねっと
 加筆修正

コメント

  1. す〜 より:

    ん〜〜〜 素敵。。。

  2. びといん より:

    す〜ちゃん江
     ありがとうございます。
     初出の時には全登場人物が実名になっていて、それを修正したので、知ってる人しか解らないという読み物になってしまいましたが、読んでいただけて嬉しいです。