../004_趣味
公衆便所の落書き。そこには、隠された何かがある。
孤独のなかで描かれた、精巧な模写。
サインペンで描きなぐられた、欲望のかけら。
血液によって、緑色の壁面に書き留められた、赤黒い電話番号。
後ろめたさと、自己主張と、悪戯心と。
薄明りと、雑感と、生活臭と。
そんな公衆便所の落書きに魅せられた男が、ここに。
もちろん、落書行為そのものは、ささいながら立派な犯罪である。世間体もあるし、馬鹿な真似はしない。男にとって興味があるのは、その落書きの収集(矛盾している。決して、世間体を気にするような人間の趣味とは言えない。が、他人がとやかくいう事でもない)。
「作品」がだいぶ集まった頃。男は、それらの展覧会をひらいた。この際、著作権がどうのこうのという、面倒な事は考慮しない。そもそもの出どころが出どころだけに、文句も来ないだろう。
展覧会のタイトルは「個室にて」。
決して、流行るだろうなどとは思ってはいない。これこそ、自己満足。
無理を言って借りた小さいギャラリーに、無意味に独りで居る日が何日か続いたが、果たして。
最初にやってきてくれたのは、銀色の髪をした老紳士だった。こざっぱりした身なりだが、特別上品でもない。浅黒い顔は、むしろ、たくましさすら感じる。
「いらっしゃいませ」
男は、待ちかねたとばかりに、席を立ち、老紳士に挨拶した。
「こりゃどうも。いやぁ、どんな趣味にも、同好の徒はいるものですなぁ」
老紳士は、にこにこして、応えた。
「偶然、前を通りすがっただけですが、便所の落書きなんぞ……おっと、そういう言い方をしては失礼ですな。……このジャンルの作品の収集家が、私のほかにもいたなんて、嬉しい限りです」
そう言われて、男も悪い気はしない。
「光栄です。さぁ、ご案内いたしましょう」
順番にいくつかの「作品」を見てまわる。男は、そのひとつひとつに採集場所や、当時の状況などの説明をする。老紳士は、それを熱心に聴く。
ある「作品」の前で、老紳士の動きが止まった。
「これは、素晴らしい!」
いたく感動の様子。青いマジックインキで書かれた、パリッシュ調の作風な一点だ。傍らの署名によると、作者は「毎晩この時間にこのトイレに来ているニューハーフ」。
「これは、おいくらですか?」
老紳士は、真剣だ。
「そうですねぇ……」
男が告げた金額は、決して安くはなかったが、老紳士にもなんとか払える額だった。
「今は、手持ちがありません。明日、また来ます。必ず代金を用意しますので、ぜひ、とっておいてください」
「手付け金をいくらか頂きたいのですが」
当然といえば当然だが、ここではクレジットの類は一切使えない。
「今日は、小銭しかありません。偶然通りかかっただけですから。あまり意味はないですけど、名刺をお渡ししておきます」
老紳士が男に名刺を渡すと、男は合点する。営業スマイル。
「ほう。マイクロトロンにお勤めですか。超大手企業ですね。わかりました。とっておきましょう」
「ありがとうございます。では、明日来ます」
老紳士……タニザキは、まるで子供のように狂喜した。
続く。
コメント